母の一大転機

家族と身近なこと

母の片付かない部屋を掃除して大量の服を捨てました。

片付けられない高齢母

それから何年もたってから、私は古いアルバムの中から一枚の写真をみつけました。

そこには、私が捨てたあの7号サイズのワンピースを着た母が写っていたのです!

それは、北海道から内地へ引越しをした

まさにその日の写真だったのです。

内地というのは、本州のことで

北海道の人は、海を渡って本州へ行くことを

内地へ行く。という言い方をします。

炭鉱の街

私が生まれたのは北海道の美唄市という

炭鉱で栄えた街でした。

最盛期はいくつも炭鉱があり

住宅街も当時にしては整然として綺麗なものだったそうです。

街は炭鉱のおかげで潤っていました。

しかし、私が生まれたころはすでに

石炭から石油エネルギーへの転換が進みつつあって

それまで栄えていた炭鉱が次々と閉山していくときでした。

そのため慣れ親しんだ住宅街を仕方なく去っていく住民がたくさんいました。

私の両親も、社宅に住み

ご近所さんと楽しく暮していたと思います。

でも、いよいよ父の会社の炭鉱も閉山が決まり

坑内へ入って行く人が使用する

安全灯の管理などの仕事をしていた父も失業してしまったのです。

内地は外国

そこで、子供二人をなんとか育てていかなくてはと、

一足先に内地へ旅立った父の弟から

内地には仕事があると聞き

一大決心をして、引っ越したのでした。

炭鉱の社宅に仲良く住んでいたご近所さんは

みんなバラバラになってしまったのです。

親兄弟がいる北の大地を離れて

内地にくるのは、それは勇気のいることだったと思います。

母曰く、当時は内地へ行くなんて外国にでも行ってしまうような感覚だったため

親兄弟は反対したそうです。

もう二度と会えないのではないか?と心配したそうです。

家財道具はコンテナで

家族4人は手荷物だけで初めて飛行機に乗って内地へ来ました。

そのときの写真がこの写真。

昭和45年頃です。

左から顔ぼかしの兄。父。私。

左から私。兄。母。

私は母の片付かない部屋を勝手に掃除して

このワンピースを捨ててしまったのです。

別にどこのブランドでもなく、なんでもない服ですが

たぶん母は捨てられなかったんでしょうね。

内地へきてからも、何度も何度も転居をしたのに

手放すチャンスはいくらでもあったのに。

40年近く、処分せずに保管してたんですね。

もう着ることはないとわかっていながら。

非情な娘

私は何故こんな7号サイズのワンピースを母が保管しているのかわかりませんでした。

まさか、そんなに古い洋服をとっておけるはずがないと思っていたので

母本人のものだなんて思いもしませんでした。

母も私もサイズが全く合いませんし。

この写真を見つけたときに

何かとても非情なことをやらかしてしまったような気持ちになりました。

母は今現在、もうその頃のことはあまりよく覚えていない様子で

親兄弟から離れて暮らしてきたことはわかっていますが

引っ越し当日のことや、後生大事にとっておいたもののことは忘れてしまったようです。

あの部屋にあった、意味不明の子供服や布切れやガラクタ

母も多分もう忘れてしまっているものたち

あれらは、かつての母にとっては意味のある捨てられないものだったんでしょう。

でも母の心にも、もう存在しない。

それなら処分してよかったはず。

なのに、なにかこう、申し訳ない気持ちになります。

やり場のない気持ち。

過去にとらわれず未来を悲観せず

でも、世の中に永遠はありません。

始まりがあれば必ず終わりもある。

物も人もいずれ朽ち果てるのです。

それなら、今を精一杯楽しんで生きよう。

過去にとらわれず、未来を悲観せず

ただただ今を大切に生きよう。

そして現在、かつての開かずの間は

私が物を溜め込んでしまっているという状態です。

血は争えない。でも床は見えてますよ。

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